(勝手な思い込み)
うちの爺ちゃんちは
某宗教(そこそこメジャー)の
小さな教会を開いていた。
当時はそこそこの数の信者さんが
来てくれてたと記憶。
その為か、例に違わず幼少より
『教義』を叩き込む教育を受けてきた。
従兄弟姉妹達も一蓮托生。
よう全員正座で説教された。
『人のため、尽くす喜び広げよう』
大枠だけみれば、
決して間違ってると思わないし、
出来うる限り人の役に立てればいいな……
と今でも思う。
ただ、その『人のため』なる基準は、
一体どこにあるんやろうか……と、
ずっと疑問に思ってた。
不思議な事に、今でも繋がりがある親族は
誰1人として『後継者』になっていない。
(そもそもあの教会は今も存続してるのか?)
人間は『欲望』が勝ると、
それまでの『倫理観』『価値観』は
『二の次』になるんやと、
自分達の親に見せつけられたから。
大人になれば『そんなもんよねぇ』的な
ちっぽけな事なんやろうけど、
子供心では消化しきれない位の『矛盾』に
ぶつかった気がしてたし、
それ以降、親、爺ちゃん、一部の叔父、
叔母さん達を心底信用出来なくなっていた。
最もらしい言葉を発しても、
全て『教義』に記されている言い回しで話す事が
身に染み付いてしまっているから、
全て『嘘臭く』聞こえた。
従兄弟の兄ちゃんに
『継ぐ気は無いのか』と聞いた事もあったけど、
『自分で信じる分にはええけど、
布教は絶対せん』
と答えが帰ってきた。
全く同感やったし、
それは今でも心に留め続けてる。
例え血を分けた親子であっても、
のめり込み度合いによっては
全く理解し合えない関係になる。
宗教に取り込まれている親が家族を犠牲にして、
財産をお布施に注ぎ込んだとしても、
そんなもんは当たり前やと感じてる。
自分達も神社仏閣では、
疑うことなく御賽銭、お供えさせて頂くし。
そもそも当の本人は、
『家族の幸せの為』やと思い込んでるから、
犠牲にしてるなんて、これっぽっちも
思っていないはず。
それを家族が『不幸』だと感じているなら、
『人のせい』にして同居せずに、
どんな事をしてでもその環境から飛び出して、
自立すれば良い。
その瞬間は『血縁』なんかに縛られる
必要はない。
自分の人生。
飛び出せるようになるまで、
時を待つことになるかも知れんけど、
そのタイミングは人各々。
家族の宗教が嫌なら別の『何か』を信じるのも
その人の自由。
ちなみに自分は悪魔教

冗談はさておき、
宗教に『良い宗教』も『悪い宗教』も無い。
犯罪性があれば話は別やけど。
『名の通っている宗教』は許容されて、
その逆は『危険』だと糾弾されるのは異常。
お布施の額の大きさだって『納める方』の
胸先1つ。
犯罪でも何でもない。
宗教なんて所詮、人の心の持ちよう。
落ちきって立ち上がれない人の心に
サッと入り込んでくる所は、どの『神』も一緒。
それを感情的に『違う』と否定する人に
何人か会った事もあるけど、そんな人に限って、
お互いの『教義』の違いを明確に説明出来ない。
全ては自分らの『神』の為。
完全に洗脳されてるだけなんやと感じた。
『神様』だろうが『仏様』だろうが、
区別なく心穏やかに素直に手を合わせる
日本人は
素晴らしい人種。
(何が言いたいんやろう?
自分でも分からんようになってきた)
……そう思うと
身内が『宗教』にめり込んだ事を
その『宗教』のせいにして
『人を殺める』なんて、
とても同情出来るものではないな。
宗教は面倒くさい。

良いことでもそれを他人に
押し付けるのは我儘である。
