【やまゆり園事件・連載③】被告の命は「生きるに値しない」のか 「試練」としての死刑判決
人間の尊厳の見地から肯定されると指摘する。「他人を殺したうえで、自分だけは生きたいという欲望は、真に人間的とはいえない。被告も人間であるために、自分だけは生きたいという欲望を乗り越えることが求められる」。その法制度が、死刑であると。(一部抜粋)
難しいなぁ。
死刑判決を受ける程の犯罪って、他の罪と比べても『程度』が違うし。
やっぱり『ご遺族の思いは何処に行けば良いの?』ってなる。
そもそも日本人は『性善説』ありきで、お互いを信用して成立してるし、そやからこそ、日本人らしく、人にも優しく出来てると感じてる。
今アメリカではコロナウイルスの蔓延に伴って銃が売れているらしい。
意味がわからん。
明らかに『互いを信用してない』からこそ起きる現象。
事実、強盗が当たり前に起きる国やから。建国後、あの国が築いていた歴史やし。
あ、話が完全に横に反れた。
被害者、遺族の心情と、加害者の人権を比較出来んと思うから、一概にどっちが◯か✕かは判断できん。
せめて死んで償え……とか、
死んで楽にさせない……とか。
犯罪の抑制のためにも極刑は残しといて、刑を適応させるかどうかの判断に委ねるしかない気がする……
って結局こう言う結論になる。
『人を殺した人』を殺せますか?
重いなぁ。
性善説 / Wikipedia
今日「性善説」という言葉は「人は本質として善であるため、放っておいても悪を行わないとする楽天主義」という意味で用いられることが少なくないが、本来は正しくない。以下に解説するように、孟子も朱子も、人の「性」は善であっても放っておけば悪を行うようになってしまうため、「聖人の教え」や「礼」などによることが必要であると説いている。(一部抜粋)